座学というのは、実はとても大事だと考えています。
退屈だなと考えがちですが、物事には道理というものがあります。
その道理を学ぶということは大事なことで、先人の知恵から学ぶのが座学の有意義なところだというのが個人的な立場です。
先人の知恵はパクっても怒られません。むしろしっかり盗んでください。
しかし学んで終わりでは意味が半減してしまいます。だからこそ行動につなげるまでを一連の流れにしてほしいです。

物事をどう解釈するか、それを「思考のフレームワーク」という言葉で伝えています。
今回の学んで欲しいこと③には【思考のフレームワーク】を挙げたいと思います。

●思考のフレームワークとはなにか

思考のフレームワークについて説明をすると、「物事をどのように解釈するか」ということになります。
事実というものは、受け止める側が自由に解釈することができます。
思考の枠組みをどのように再構成するのか、ということになります。

例としては、コップの中に入っているジュースが
「もう半分しかない」と考えるのか、
「まだ半分もある」と考えるのか。
どちらの解釈をしたほうが、自分にとって良いのかを考えて解釈をすることが大事です。

この思考のフレームワークという考え方を取り入れると、物事の捉え方が変わります。
捉え方が変わるということは、感情も変わってきます。

なにか指摘をされたときに人は「自分はダメだ」と考えがちですが、「自分を高めるために必要なアドバイス」と捉えられたら感情的にどう変わるでしょうか。

精神的に強い人というのは、自分にとってプラスとなるような解釈をしていることが多いです。
悩むことに時間を使うのではなく、自分の課題として解決するために時間を使えるようにもなります。

私の知り合いは寝坊したときに奥さんから「もうこんな時間だよ、急がなきゃ!」と言われてから、リビングで椅子に座ってタバコを吸い始めたそうです。
「今、寝起きで慌てて家を出ても、タバコを1本吸ってから家を出ても、遅刻に変わりない。遅刻の時間が5分か10分かなんて大した違いはない。どちらも遅刻だ。それなら、この1本のタバコを吸う時間で『これからなにをするべきか』『どのような段取りでこの遅刻を挽回するのか』を考えたほうがいい。慌てて家を出ていたら、不注意で事故を起こすかもしれない。忘れ物をするかもしれない。それなら5分の遅刻が10分の遅刻になっても、今大事なことは家を慌てて出ることではない。このあと何をするべきかを考えたほうが、その後の時間の使い方は大きく変わるはずだ」

奥さんはこれを聞いて、なるほどと納得したようですが、遅刻はしてはいけません(笑)。
これは極端な話ではありますが、「遅刻→慌てて家を出る」と考えるか、「どうせ遅刻→段取りを整えてから急いで家を出る」と考えるか。

遅刻はいけませんよ。
でも、遅刻している事実は変わらないわけで、どうせ遅刻が確定ならば、次の段取りをうまく進めるための時間をとって、速やかに行動して遅刻を挽回するという発想が思考のフレームワークを変える、つまり思考の枠組みを変えるということになります。

そして、このような考え方をするには柔軟な発想が必要になります。
とはいえ、今までそのような考え方をしていない人がどうやってそういう考え方ができるようになるのかというと、ふつうに考えたら難しいと思います。
なぜなら今までそういう発想で物事を見てきていないから。
多角的な視点で物事を見る努力はできますが、いきなりは難しい。
ではどうしたらよいか。

そこで、読書などを取り入れることになります。
いろいろな人の、いろいろな考え方、物の見方、現象の捉え方を知るために読書をする。
もちろん、普通に本の内容は楽しんでいいのですが、頭の隅に「物事をどのように捉えるか」を置いて読むようにするのです。

こういう学問の仕方を座学といいます。
学校での授業も座学ですね。

●座学は実践をともなうから意味がある

とはいえ、座学だけしていても意味がありません。
なにごとも血肉にするためには実践が必要だからです。
座学と実践、その両方があって初めて意味があります

学んだことを覚えることは、ただの記憶情報にすぎません。
「知っていること」と「できること」は違います。
「できるようになること」のために学ぶ、つまり知るわけですから、実践をともなわない座学は無駄になりかねません。

知り合いでいませんか?
余計な知識ばかりはあるけど、行動が伴っていない人。
こういう人はいつの時代にも一定数いるのが常で、今は情報過多の時代ですから余計にそうなりがちなのではないかと勘ぐってもいます。

もっともらしいことを言うけれどなにもしない。
知識はあるけど実践しないから、憶測でしか話ができない。
そこに経験はないので、大事なことに気づけない。
そんな人にあなたはなりたいですか?

安岡正篤という方がいました。
この方は終戦の勅(みことのり)の原案を書いた偉大な人です。
安岡先生は、「三識」という言葉で説明をしていますので、ここで紹介します。

「知識」とは理解と記憶力で、大脳皮質の作用によるものです。学校の学問や職業知識など多岐にわたり、次の「見識」の土台となります。
「見識」は知識が人格・体験・直観を通じて自分なりの判断力に変わったもので、現実の複雑な事態で『何が本質か』を選び取る力です。
「見識」に責任がともなう(断固たる実行力)に変わると「胆識」に変わります。胆識は周囲を導き、結果を出すことができるようになります。

胆識までいくと、リーダーシップなども発揮できると言います。そこまでとは言いませんが、学んだことを実践にうつし、知識だけで終わらせず、見識にまでは昇華させたいですよね。

だから学んだことは実践しましょう
やってみる。そこで何かしら得られるものは大きな意味を持ちます。

●声の仕事は「未完成が前提である」特殊な仕事

声の仕事というのはとても特殊な仕事だと考えています。
なにが特殊だと思いますか?

それは、声の仕事は未完成が前提だということが、です。
未完成とは、ナレーター・声優その人がです。

普通は完成したものが取引されます。
食べ物も飲み物も製品などは基本、完成品が商品として売買の対象になります。
でもナレーター・声優といった声の仕事は違います。

成果を数字で表現できないものの価値を表すことは非常に難しいです。
ナレーター・声優の感性や技術、実力は数字では表せません。
また、昨日より今日、今日より明日、より良くなっていて欲しいという願いと期待もあります。

だから演出をする側は、より良いものを引き出そうと努力しますし、なんの経験もないタレントを事務所は売ることができるのです。
そこには期待・希望・想いがあるからです。
でも逆を言えば、未完成だからこそ「今できる最善の努力をすることが求められる」ということでもあります。

努力をしろと言われてもなにをどう頑張ればいいのかわかりませんよね。
だからこそ、日常の延長に学びを積み重ねて欲しいと思います。

ナレーター・声優の仕事というのは、日常の延長線上にあるんです。

●声の仕事は日常の延長線上にある仕事

あなたがなにげなくコミュニケーションをとっている相手、それが両親のときと、好きな異性や年上の誰か他人を相手にするときでは、接し方は変わりますよね。
両親であれば、ある程度気安く接することができるでしょう。
好きな異性であれば、その関係性にもよりますし、年上の誰かが相手では丁寧な言葉遣いをしたり、それ相応の礼儀をもって接するはずです。
これはおそらく、ほぼほぼ無意識に相手と自分の関係を察して行われることです。

これができることは当たり前だと思って、みんな深く考えませんね。
でも、無意識にこれができているということはすごいことなんです。
意識的にやれるということもすごいことです。

この「相手と自分の関係性を考えて向き合うこと」は、相手への言葉遣いや態度、表情などのコミュニケーションを変える要素です。
表現というのは「自分の内面をどのように表に出すか」だと思うのですが、それはすべて「相手があってのこと」なんですね。

つまり、「想定する相手がいないのにする表現」は「独りよがりの妄想と同じ」で、「相手がいて初めて表現というのは成立するもの」だということです。

相手に嫌われたくない、むしろ好かれたいとか気にかけてもらいたいとか。
相手に喜んで欲しい、良い印象をもってもらいたい、などいろいろありますが、それらは相手がいて、その相手にどう自分を見せるかにつながることです。

ということは、芝居でもナレーションでもなんでも、「相手がいなければ成立しない」ということではありませんか?
だから、どのような声が出せるか、どんな表現ができるかは、相手がいなければ何の意味もありません。相手がいなければすべて自己満足の域を出ません。
日常生活の延長に学びを積み重ねて、それを意識的にできるようにすることが表現者として重要になってきます。

そして座学の大事なことですが、さきほど物事には道理があると書きました。
その道理というのは、一面だけを見ていてはわからないことだらけです。

だれだれがこう言っていたからそうなんだ。そういう理解もありかもしれません。
でも大事なことは「なぜそうなのか」です。

コインには裏表があります。
でも、それを横から見る視点があると、コインはただの丸ではなくなります。当たり前だと思われがちですが、これがなかなか当たり前になっていません。

物事をどのように見るのかの視点、それを学ぶのも座学があるかないかではそこに行きつくまでに差が出ることが多いものです。

先ほどコミュニケーションについて、「ほぼほぼ無意識に相手と自分の関係を察して行われること」と書きました。でもこれをより深く追求したとき、あなたの表現にはどれほどの引き出しが増えると思いますか?
その相手との関係、心の距離感や抱いている感情、相手にどう見られたいかなど日常生活で出会う、たくさんの人との関係性を意識することが学生のうちから出来ていたら、芝居や表現にどれほどの深みにつながるのでしょうか。

この文章をここまで頑張って読んだあなたには、新しい視点が加わっています。

これも座学の力です。なにも机に座って勉強するだけが座学ではありませんよね。
このブログの目的は全体を通して、読んでくれたあなたの思考のフレームワークを変えるようなことを意識して書いています。
このブログ内で書かれた内容は、さまざまなところで思考のフレームワークを変えて、一般的に思われているものの見方とは違うことを伝えようとしています。

●マクドナルドはハンバーガー屋?

ひとつ視点の話として面白い例を挙げます。マクドナルドは皆さん知ってますよね。
マクドナルドの商売はなんだかわかりますか?

ハンバーガー屋に決まっている、そんな声が聞こえてきそうです。
でも違うと言ったら、なにをしている会社なんだろうと思いますよね。

実は、マクドナルドは不動産屋です。

「何を言っているんだ、こいつは」そんな声が聞こえてきそうですね。

マクドナルドの出店計画というのは、いわゆる一等地と呼ばれる、不動産価値の高い場所を狙っています。すべてがそうではないとしても、基本的な出店計画は一等地を購入し、その支払いの手段としてハンバーガーを売っているというビジネスです。

これならば、なにかのきっかけでハンバーガーが売れなくなったとしても、その土地を使って商売ができるんですね。土地の売買もできれば賃貸もできる。そのための一等地への出店計画です。だからハンバーガーは手段であって、目的ではないということになります。

経営者が変わったり、時代に合わせて企業文化に変化が出たりするものですが、マクドナルドという会社のビジネスはもともと不動産を購入するための手段としてハンバーガーを売っていたと学びました。
世界中にたくさんの不動産を持っている以上、不動産屋として見ることが妥当だと思います。

これが物事を見る視点の違いの例です。

このように、ハンバーガーを売る会社だと決めつけてマクドナルドを見るのと、不動産屋としての側面からマクドナルドという会社を見るのでは、会社の理解にどれほどの違いが出るのかわかると思います。

日常からこのようにさまざまな視点で物事をとらえられると、なにか良いことがあるのか。

芝居やナレーションの原稿と向き合うときにも役に立ちます。
自分の思考方法の癖にも気づくかもしれません。それは表現の狭さにつながりますから、その思考方法の癖、こういうときにこのように考えがちだ、という理解にもなります。そして、この視点があるとストレスが減ります。確実に減ります。

なぜなら、考え方の枠組みを変えることができるからです。
「思考のフレームワークを変える」と、自分の都合の良い、少なくともダメージの少ない解釈で物事を受け止めることができるようにもなります。

必要以上に落ち込むこともなくなるかもしれません。
悩むということに対しても、悩み方が変わります。
そして前向きに頑張ろうとしているときには、加速がついたりもします。

それらをここで並べ立てることはしませんが、先人の知恵を学ぶ座学はその捉え方次第では、道理を知るだけでなく、知識を見識にまで高めるもとになる素晴らしい教えに変わるかもしれません。だからこそ、「思考のフレームワークを変える」を意識してみることをおすすめしたいと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。